世界中で多くの人の命をおびやかしている病気、がん。患者の数は年々増加しています。そんな中、患者への負担が少ない治療法として、陽子線を使った治療が期待を集めています。
日立は北海道大学との共同研究で、新しい陽子線がん治療装置を開発。これまで陽子線治療が抱えていた弱点を改善し、陽子線治療の普及へと新たな一歩を踏み出しました。
より多くの人が、陽子線治療を受けられる日をめざして。日立と北海道大学の挑戦が続きます。
藤本 林太郎(ふじもと りんたろう)
主任研究員
(2018年3月8日 公開)
藤本がんの治療法は、大きく分けて3つあります。手術でがんを取り除く外科療法、抗がん剤を使う化学療法、そして、身体の外からがんに放射線を照射する放射線療法です。この3つのうち、患者さんへの負担が最も少ないのが放射線療法で、陽子線を使う方式はその一種です。
陽子線には優れた性質があります。人間の体を通り抜けるときはエネルギーが小さく、止まった個所でいちばん大きなエネルギーを発することです。放射線治療では、少なからず正常な組織まで傷つけてしまいますが、陽子線なら、ちょうどがんの位置で止まるようにすれば、正常な組織を大きく傷つけずにがんだけにダメージを与えられます。
以前は、患者さんのがんの形に合わせてくりぬいた板を通すことで、照射の範囲を調整していました。しかし、その都度特注の板を用意する手間が掛かりますし、どうしてもがんの周囲にまで陽子線が当たります。そこで日立では、「スポットスキャニング照射法」を開発してきました。陽子線の細いビームを電磁石で操り、がんの部分を塗りつぶすように照射する方式です。がんだけを狙い撃ちするので、正常な組織を傷つけにくい。究極のがん治療法ともいえます。
藤本はい。ただ、そんなスポットスキャニング照射法にも、2つの弱点がありました。一つは、陽子線を照射する装置がとても大掛かりで、大きな病院にしか設置できないこと。もう一つは、「動くがん」の治療が難しいことです。それでこの研究では、北海道大学と共同で、これらの弱点を改善した新しい陽子線がん治療装置を開発しました。
藤本例えば、肺がんです。肺は患者さんの呼吸に合わせて動くので、がんの位置が常に変動しています。ほかにも、呼吸に合わせて動く臓器があります。こうした動くがんは、ビームでの狙い撃ちが難しく、「撃ち残し」ができてしまうんです。
北海道大学ではもともと、X線治療のために、こういった動くがんの位置をリアルタイムで追跡する動体追跡技術を開発していました。この技術を、日立のスポットスキャニング照射法と組み合わせれば、動くがんを陽子線で治療できるはず。そうした思いから、最先端研究開発支援プログラム「FIRST」に、北海道大学を主体とした共同研究を提案しました。
「FIRST」は、内閣府の総合科学技術会議が、最先端の研究テーマとその研究を担う研究機関を選定して、長期的に支援する国家プロジェクトです。2009年に研究のテーマと機関を公募していて、日立と北海道大学の共同提案は、放射線治療の発展を期待して支援対象に選ばれました。
わたしは、入社以来ずっと放射線治療システムの開発に携わっています。この研究では、陽子線の照射を制御するための治療計画ソフトウェアの開発や、照射のシミュレーションなどを担当しました。
藤本まず、がんの近くに金マーカーというものを埋め込みます。この金マーカーの位置を、微量のX線を使って、三次元的に認識します。患者さんの呼吸でがんが動くと、金マーカーも動くので、がんの位置を確かめられます。治療の際は、あらかじめビームを照射する範囲を決めておき、がんの位置を1秒間に最大30回認識して、がんが範囲の中に入ったときだけビームを撃ち、呼吸によって範囲を外れたらビームを止めます。リアルタイムの動体追跡技術と、高精度な陽子線の制御技術を組み合わせて、呼吸で動くがんに対しても正確に照射できるようになっています。
さらに、ビームの撃ち方にも工夫があります。スポットスキャニング照射法では、紙をペンで塗りつぶすときのようにジグザグにビームを動かすのですが、通常の治療装置では、ジグザグの方向は装置の構成によって決められています。これを、がんが上下に動くならジグザグも上下に、斜めならジグザグも斜めにと、照射前の計画時にがんの動く方向に合わせられるようにしました。この改良で、さらに呼吸の動きの影響を受けづらくなっています。がんに対して、なるべく一様に陽子線を照射した方が、治療の効果が出ます。呼吸の影響を受けづらくし、撃ち残しやムラができないようにすることで、治療の効果を高められると期待されます。
このように、スポットスキャニング照射法では、照射の精度だけでなく、どこにどのようにビームを照射すればよいかが非常に重要になります。これを制御するのが、治療計画ソフトウェアです。患者さんの体内にビームが与える影響をシミュレーションで予測し、最適な照射の位置やエネルギーなどの照射方法を決めます。わたしが担当した機能とアルゴリズムの開発の過程では、北海道大学からも意見を頂きながら、改良を続けてきました。
図1 動体追跡技術を使った陽子線照射の仕組み
藤本はい。これまでは、陽子線の照射装置はかなり大きいものでした。新しく装置を開発するに当たって、スポットスキャニング照射法に特化した必要最低限の作りにすることで、コンパクトにできました。設置に必要な面積が従来のものより狭く、病院にとっても導入しやすい装置になっています。
藤本短時間で陽子線を照射できる、実用的な装置にすることです。陽子線の照射に掛かる時間は、患者さんが耐えられる時間でなければなりません。1回の治療に1時間以上も掛かるようでは、患者さんが苦痛に感じてしまいます。
陽子線のスポットスキャニング照射は、X線の照射とは勝手が違います。北海道大学の動体追跡技術は、X線治療のために開発されたので、そのまま組み合わせてもうまく照射できませんでした。シミュレーションや、模型を使った実験を繰り返して、短時間で効率的に、かつ正確に陽子線を照射できるシステムを作っていきました。
藤本日立の放射線治療の研究チームと、北海道大学の研究チームは、最初から直接つながりがあったわけではないんです。しかし、日立としては、以前から北海道大学とつながりを持っていました。医療分野でもつながりがあったので、そうしたつながりを通じて、陽子線がん治療装置の共同研究が始まりました。2010年からずっと共同研究を続けていて、いまではフランクにおしゃべりできる仲です(笑)。
どのようにビームを制御し、どんな撃ち方をすれば効率良くがんに照射できるか、治療装置の具体的な設計に落とし込む前から、日立と北海道大学でアイデアを出し合いました。企業と大学の間で、これだけ基礎の部分から議論を進め、製品の形に仕上げられたのは、かなり面白いことだったと思います。議論の過程で幾つか特許を取れる技術も生まれたので、どうやって共願にしていくかなど、共同研究の仕組み作りもしました。
藤本北海道大学には、X線治療などで積み重ねてきた、がん治療の実績と知見があります。こうした現場のデータは、メーカー側ではなかなか得られないものです。これらのデータも、研究の中で鍵になりました。例えば、鍵になったデータの一つが、呼吸の動きを表すデータです。
研究の当初は、呼吸で動くがんといっても、ビームの照射範囲に対して単純に出入りを繰り返すものだと想定していました。しかし、北海道大学での治療データから、実際のがんがとても複雑な動きをすることがわかりました。従来のビームの制御方法では、そこまで不規則な動きにはうまく対応できません。そのため、照射の効率がとても悪くなり、治療が長引いてしまいます。そこで、不規則な動きにも対応できる、新しいビームの制御方法を考えました。
装置が完成したあとも、北海道大学の方々とやり取りを続け、現場ではこういうところに困っているとか、次はこういう装置が欲しいとか、議論しています。医療関係者のニーズや、がん治療の現場で起こっていることをくみ取るために、これからも共同研究を続けていく必要があると感じています。
藤本2010年からこの研究を開始して、2014年には実際のがんの治療を始め、すでに治療の実績を重ねています。社外でも高い評価を受け、恩賜発明賞や日本産業技術大賞など多くの表彰を頂きました。いま、日立の陽子線がん治療装置は、アメリカの大病院にも導入されるなど、かなり有名になっています。こうした最先端の治療現場で生まれるニーズをきっちりくみ取って、これからもよりよい製品を作っていきます。
北海道大学との協力だけでなく、日立の内部でも、さまざまな部署がこの研究にかかわりました。こうして代表としてわたしが話していますが、本当に多くの方が力を合わせた研究です。社内外の優れた技術を結集したことで、良いものができたのだと思っています。
図2 北海道大学に設置された治療室
藤本陽子線治療を、もっと身近なものにしていきたいですね。いまはまだ、最先端の病院でしか受けられない治療法ですが、もっと敷居を下げて、誰でも使える治療法にしたい。そのために、陽子線がん治療装置をより多くの病院に普及させたいと考えています。多くの病院に設置するには、できるだけ小型で、低コストである必要があります。今回開発した治療装置でも、従来のものと比べればかなり小型化できました。しかし、まだまだ小型化できる余地があります。
また、動体追跡技術についても、さらに改良を加えたいですね。いまの技術でも正確な照射ができますが、狙いを定めるための金マーカーの挿入に簡単な手術が必要だったり、微量とはいえ位置確認のためにX線を照射したりします。このあたりも、もっと簡単に、もっと患者さんへの負担を少なく。そのうえで、いまの装置と同じくらい、正確な照射ができるものをめざしています。
負担の少ない陽子線治療を、より多くの方が受けられることを目標に、これからも研究を続けていきます。