ページの本文へ

Hitachi

馬場粂夫博士
馬場粂夫博士(1947年)

  日立返仁会は、博士号の学位を持った日立グループと日立造船グループの関係者(在籍者とOB)の集りです。当会は日立製作所創立時からの開拓者精神を受け継いで、学位に安住することなく、これを踏み台としてより高度な研究・技術開発を遂行し、ひいては科学技術を通して社会に貢献したいという人々で構成されています。

  日立返仁会は、日立創立者の一人である馬場粂夫博士(1885年(明治18年)~1977年(昭和52年))が、優れた自主技術の確立のため技術者の育成に努力され、1935年 (昭和10年)頃より20年間に30人の博士をつくりたいとの悲願をたて、積極的に学位取得を奨励されたことに端を発しています。

創立時のメンバー
創立時のメンバー

  1952年 (昭和27年)にその願いがかなって博士が30名に達したのを機に、「三十人会」として発足したのが本会の始まりです。
  このとき会員各自が、馬場博士に替わってそれぞれ3人ずつ新しく博士を育成し、百人会へと発展することを誓い合いました。翌1953年 (昭和28年)には「変人会」と名を変え、会則も制定され、馬場博士が初代会長に就任しました。

  この「変人」の由来は、馬場博士の「世上才子と学者は自ら異なり、才子は所謂常識の豊富なるを現すが学者は然らず。是等両者の極端なるものを学者側では変人と云い、才子側では粋人と云う。何れも凡俗を脱し居るけれども、高度の発明を為すものは変人以外は期待し難い。」との持論によります。これより会員は変人と呼称することにしました。
  この呼称には、会員に対して学位に安住せず自己研鑽に励み、高度の発明・技術開発を成し、且つ後進の育成に努める『変人たれ』という励ましの意味も含まれています。なお、会社を離れた変人は先生と呼称します。また馬場初代会長のみ大変人と尊敬を込めて呼称しています。
  「変人会」は1959年 (昭和34年)に「返仁会」と改称しました。馬場大変人は、改称の理由として「社外会場での入口立看板を道往く人に珍妙な会と立ち留まって見られたり、(一番体裁が悪かったのは)『日立変人会の皆様』と呼ばれるので、コレは如何に弟子共であるにせよ、余りの迷惑は拙い」と述べています。
  この「返仁」の「仁」は愛慈悲の心に通じる意義あるもので、「返」には根本にかえり、その恩に報いるという意味を込めています。そして馬場大変人は、徳を高め、人に愛され、人に信じられることの大切さを強調し、「空己唯盡孚誠」を返仁会活動の心構えとしました。

「空己唯盡孚誠」馬場大変人書
「空己唯盡孚誠」馬場大変人書

  「空己唯盡孚誠」は「己(おのれ)を空(むな)しうして唯(ただ)孚誠(ふせい)を盡(つく)す」と読みます。己を空しうすることは、わがままなどの私心を去ることにあたります。孚は親鳥が卵を抱いて温める姿をかたどった字であるといわれ、古くはマコトと読まれていました。日立返仁会では孚誠を暖かい思いやりのこもった情愛のあるマコト、私心を去った誠実なマコトという意味で使用しています。また盡(尽)すは、己に有る限りの孚誠を出しきるという意味で使用しています。

  現在、返仁会は会員数も2000名を越え、より高度な研究に挑戦し、また後進の育成にあたり、創造力豊かな社会の実現に貢献すべく活動しています。