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2024年に生誕150周年を迎えた、日立の創業者・小平浪平(1874〜1951)。日立製作所の創業に至るまでの道のりは、決して平たんなものではありませんでした。幼少期から事業を拡大していくまでの半生を、マンガで振り返ります。

日立の創業者・小平浪平は、1874年に栃木県の合戦場で生まれ、教育熱心な両親に育てられました。
大学進学の際、進路を悩んでいた浪平ですが、小説家・村井弦斎のもとを訪ね、電気工学の道へ進むことを勧められます。
大学卒業後は、秋田県の小坂鉱山に就職し、鉱山で使用する電気機械を動かすための発電所の立ち上げを任されます。
たった2年で小坂鉱山の発電所を完成させた浪平は、その後経験を積んだ後、東京電燈(現在の東京電力)に就職します。しかし、現場で使用されている機械の多くが外国製であるという現実に直面し、衝撃を受けます。
外国製品に頼らず、日本製の電気機械をつくり、日本の発展に貢献したいと考えた浪平は、上司からの勧めで、茨城県日立市の日立鉱山に転職することになりました。
日立鉱山に工作課長として入社し、外国製の電気機械を修理する日々に追われます。その後、国内最大級の石岡発電所の建設を任された浪平のもとにたくさんの人材が集まりました。
こうして集まった仲間たちと共に日本製のモーターの製造に取り掛かり、1910年に日立の創業の製品である五馬力モーターが完成します。
翌年には、修理工場を建て替えて、電気機械の製作に着手し、日立製作所として歩み始めます。しかし、いざ創業したものの、製品トラブルが続出し、対応に追われました。
やがて、第一次世界大戦がはじまり、外国製品の輸入がストップしたことで注文が増えるようになりました。1917年には、本社を東京に移します。
1920年に株式会社として独立した日立製作所は、1924年には大型電気機関車を製造。関東大震災で関東地方が被災した際は京浜地区の復興に尽力し、徐々に社会的な信頼を得ていきました。
1926年には扇風機を量産し、日立製品の海外への輸出を始めます。大恐慌が世界を襲う中でも浪平はあきらめず、海外でも例がない規模の「水電解槽」をわずか1年で製作し、その後もエレベーターや電気冷蔵庫など幅広い製品を手掛け、技術力を高めていきます。
波平は1951年に77年間の生涯に幕を閉じますが、日立グループはその後も事業を拡げ、インフラを支えるデジタル技術・ソリューションを提供する会社へと進化しました。今日に至るまで、浪平の掲げた企業理念は脈々と受け継がれています。