人間が関わる作業で、事故をゼロにするのは困難だ。原因が明確にある事故ならば対策を施すこともできるが、作業者の小さな疲労やストレスが重なって引き起こすような事故は未然に防ぐことがさらに難しくなる。日立製作所では、作業者の生体データと事故につながるヒヤリハット事象との関係性の解析に取り組んできた。研究開発グループの田中主任研究員と伊藤研究員のチームの研究は、リアルタイムの生体データから事故リスクを推測するシステムの開発で、第一弾として、物流ドライバー向けのソリューションの提供に寄与してきた。
(2023年1月24日 公開)田中:小さいころから自宅にコンピュータがあり、コンピュータが好きで大学でも電子情報工学を専攻しました。とは言っても、入学してからはサッカーばかりやっていて、研究者になるとは思っていませんでした。企業から来られた先生が立ち上げた、通信や電子デバイスのシミュレーションをする新しい研究室に配属が決まりました。その立ち上げ時期を通じて、研究して発見することの面白さを体感しました。
サッカーに力を入れていた大学生活でしたが、物理は好きでした。多くの物理現象はシンプルな法則をもとに表現することができます。シミュレーションも同じだなと感じたのです。シンプルなロジックを大規模にすると複雑な現象が表現できたりしますし、自分で書いたプログラムで新しい現象を発見できることがとても面白い。大学院に進学して、就職活動を始めた頃には研究職を強く意識していたわけではないのですが、日立を見学したときに研究者が伸び伸びと働いているところを見て、面白そうだなと感じました。また日立の研究所では今のIoTの前の段階であるセンサーネットワークの研究をしていて、通信や電子デバイスの知識も生かせそうだと思い、希望して入社しました。
伊藤:子どものころの将来の夢は宇宙飛行士でしたが、成長するに従ってだんだん現実的になってきて(笑)、研究者、エンジニアなど理系の職業につけたらいいなと思うようになりました。大学は、工学部のメディカルシステム工学科を専攻し、進学しました。医療機器、義手・義足、外科医の体をサポートするパワーアシストスーツのようなものなど、医用生体工学を研究する学科です。工学部で医療にかかわる研究という切り口に興味を持ったのだろうと思います。秋田出身なので東北地方の大学に進むつもりだったのですが、母が千葉ロッテマリーンズの大ファンで、関東の大学も見ておきなさいよと言われたこともきっかけの1つでした。
学部の3年生で、工学部だけれど外科医の先生が指導する研究室に配属になりました。私は画像処理技術を用いて、大腸内視鏡によるがん診断を支援する研究に携わりました。医師とのニーズを大事にする研究室で、がんを切り取るべきかどうかの診断を、AI(人工知能)を使って支援する研究をしていました。ところが、大学院に進学して修士課程の1年次が修了したタイミングで、師事していた先生の異動により所属していた研究室がなくなってしまいました。最後の一年は、同じく画像処理を扱う他の研究室へお世話になりました。そこでは、技術を応用して現場に適用するといったシーズの観点から研究する姿勢を教えていただきました。
結果的には、シーズ由来とニーズ由来という、見方がちょうど逆2つの研究室を体験することができました。現場と研究開発では、技術に求められる価値や考え方が違うことを学び、これは今の仕事にも生かされていると感じます。
就職活動では日立の研究職を第一志望にしました。日立で研究している人には、人間的に面白い人が多いなと思ったのが最大の理由です。優秀な人、面白い人に出会い、研究を楽しく進めたいと感じたのです。
現在(2022年度で)入社4年目になります。1年目は画像診断や画像認識といった学生時代に近い研究テーマで、乳がんの超音波診断装置の開発に取り組んでいました。ところが2年目になると事業改革の一環で、画像診断事業が他社に移管されることとなりました。このため、それまでとは異なる領域の研究に携わることになったのです。大学のときに研究室がなくなる経験をしていますが、また同じような経験をすることになりました。しかし、これが現在研究しているウェアラブルデバイスや生体センサを使ったトラックのドライバーの疲労を予測するテーマに参加するきっかけになりました。
田中:入社してからは、微小なセンサ群をネットワークにつないでヒトや物からリアルタイムに情報を収集する研究や、脈拍や行動を測るウェアラブルデバイスを自作して実験するような取り組みをしていました。当時、24時間の脈拍・行動を測る腕時計のようなものはなかったので、その研究を発展させ、現在のスマートバンドにあたるものをかなり早めに開発した先駆者の1人だったと自負しています。研究自体は面白かったのですが、残念ながら日立では事業には結びつきませんでした。
そこで新しい研究の方向を探すことになりました。センサの技術を活用する研究です。健康増進や生活習慣病の予防に使うことや、スポーツ選手の動きのデータを効率的なトレーニングに活用することなど、センサを活用したさまざまな研究を重ねてきました。センサの活用範囲という意味では、どちらかというとヘルスケア指向が強かったように思います。
そうした中で、プロの自動車ドライバーの事故を防ぐ「安全」の切り口での研究に取り組むことになりました。日立のグループ会社で日々運転しているドライバーに対して、安全教育や対策を施しても、事故が起きてしまうケースがどうしてもなくならなかったからです。ドライバーの疲労やストレスをセンサで測ることで、事故を未然に防ぐことに寄与できるのではないか、という発想でした。
よそ見をしている、居眠りをしているといった明らかな原因があるわけではないのに、ボーッとして追突してしまったといった「漫然運転」による事故が増える傾向にあったのです。これは運転中に明示的な原因がない事故ということもあり、非常に対策がとりにくい、という特徴があります。
センサを健康維持・増進に活用する取り組みの中で、日本疲労学会理事で大阪大学や大阪市立大学で教鞭を取られていた倉恒弘彦先生や、日本疲労学会理事長で理化学研究所にいらっしゃる渡辺恭良先生と連携しながら疲労について研究をしていました。この段階で、疲労に対する先行研究はありましたが、事故や、事故に結びつくヒヤリハット事象との関係は学術的には実証されていませんでした。私たちは、漫然運転の原因はドライバーの疲労と体調変化にあると考え、疲労に関する研究の第一人者の先生方に助言をいただきながら研究を始めました。
そして2017年ころからプロトタイプの開発に着手しました。2019年からは日立物流の1,200台の営業車両の運転データと数十人のドライバーにセンサデータでの体調測定を依頼し、それらのデータをもとにして漫然運転と疲労の関係のモデルを作成していきました。体調測定による疲労と、ヒヤリハット事象の相関性を解明し、アルゴリズム化することに成功したのです。これを論文として学会発表することで、学術的なエビデンスに基づいた危険予測ができるようになったというわけです。
伊藤:私自身は、機械学習を使う部分をテーマにして、生体データと事故の発生有無のデータとを結びつけて、疲労を表現する指標を用いて、事故発生のリスクを推定する研究をしています。体調を測定した生体データは、運転前後のものと、運転中のものがあります。運転前後の体調測定データは4,000人日分を収集し、事故リスクとの相関を解明しました。
また、体調変化から事故リスクを減らすために、運転中のリアルタイムの生体データを1,200人日分収集し、自律神経の測定データを解析し、運転中の体調と事故リスクとの関係を明らかにしました。心拍データを採ることで、心拍変動解析という技術を使って自律神経機能を示す各種の特徴量を表すことができます。疲労やストレスが生じると、本人が自覚せずとも、自律神経の働きと連動して心拍の間隔が変化するのです。並行して車両の挙動のデータも収集します。自律神経の数十の特徴量の変化と、車両の挙動とを照らし合わせて、ヒヤリハット事象との相関を調べていきました。
直接的な事故のデータではなく、ヒヤリハット事象との相関を対象にしたのは、実際には事故はほとんど起こらず、十分な量のデータがとれないからです。事故データの代わりに、ヒヤッとする場面に遭遇するヒヤリハット事象との相関を調べ、事故リスク予測アルゴリズムを開発しました。
田中:研究成果は、研究の発端にもなった日立物流の安全運行管理ソリューション「SSCV-Safety」に実装されています。これは輸送事業者向けのソリューション「SSCV (Smart & Safety Connected Vehicle)」の一部で、安全を支援するサービスです。日立物流が自社で利用するほか、ソリューションとして外部に提供して、物流の安全、事故ゼロをめざす取り組みに使われています。
SSCV-Safetyでは、センサで人の心拍などの生体情報を測定して、疲労や事故の起きやすさを予測します。機能としては大きく、「乗車前」「運転中」「振り返り」の3つに対応しています。乗車前には、生体データを測定することでドライバーの体調・疲労より運行中のヒヤリハット発生を予測して、事故リスク減少につなげます。運転中はリアルタイムで生体データを取得して危険状況をドライバー本人や管理者に通知します。振り返りでは、AIや機器が検知したヒヤリハット事象を動画で確認して、1日の業務の終わりに状況をフィードバックします。日立物流と一緒に研究を続けてきた成果として、SSCV-Safetyの提供が始まったのはとても嬉しいことです。
田中:漫然運転が起きているのは、ドライバーの疲労が原因ではないかという仮説は、現場をはじめとして以前からありました。しかし、疲れをどうやって測定し、どのようにフィードバックするかの知見はありませんでした。研究では、機械学習によるヒヤリハット分類技術と、疲労による事故リスクを生体データからリアルタイムで予測する技術を開発しました。
まず、車両挙動データから異常挙動の特徴を抽出し、ヒヤリハット事象が発生しやすい危険度を出力するヒヤリハット分類技術を開発しました。車載カメラ映像などから人間が目視でヒヤリハット事象を確認することはできますが、これには多くの時間がかかります。そこで機械学習を使ってヒヤリハット事象を自動的に分類できるようにしました。
つぎに、疲労による事故リスクを生体データからリアルタイムで予測するため、業務中のドライバー1,200人日分の心拍データとヒヤリハット事象の関係を解析しました。この解析から自律神経機能の約50の特徴量を求めます。心拍データから得た疲労やストレスなどの特徴量と、ヒヤリハット事象の発生数はそのままでは相関が得られにくいものでした。そこで、特徴量に対するヒヤリハット事象の発生しやすさ(危険度)を確率分布で計算しました。ここから、特定の疲労やストレスなどの特徴量の値によって、特に危険度が高い状態の確率分布が広がる傾向にあることがわかりました。
すなわち、ヒヤリハット事象の危険度の分布が低く偏るような特徴量が抽出できれば、事故リスクが低いドライバーの状態がわかるわけです。研究では、抽出した副交感神経指標(HF)を低ストレスな方向に制御することで、危険度が高い状態にある確率を最大で約50%低減できることを解明しました。
伊藤:リアルタイムの生体データ測定は難しかったですね。心拍データは、安静閉眼(目を閉じて安静な)状態で測定するのが最も良い測定方法です。しかし運転中のリアルタイムデータは安静閉眼では取れません。運転中に適用できるようにリストバンド型デバイスとの連携開発をしましたが、車両の振動やハンドル操作などによってデータがうまく取れなかったり、電波状況の悪さからデータの遅延や欠損がでたりと、苦労は耐えませんでした。
田中:研究自体が新しいものです。生体データのノイズも大きく、個人差も大きい上に、ヒヤリハット事象の頻度が高くありません。関係性は簡単には表すことができないのです。データを見ながら発見するアプローチと、それをどうモデル化するかというアプローチの両面から、ヒヤリハット事象の確率分布を生体データの特徴量との相関性をモデル化することができたと考えています。
伊藤:SSCV-Safetyの開発に用いられた技術では、自律神経のうちリラックス時に活動が優位になるといわれる副交感神経指標(HF)の値が大きくなると、高リスクな場面が低減することがわかりました。シンプルな指標であり、疲労の専門家の先生方にもお墨付きをいただきました。これで事故の傾向が低くなる自律神経の特徴量は見つけられます。でも本当は、危険度が高いところを見つけてアラートを出すことができればより良いわけです。ただし、どういうときに危険度が高くなるかは、ひとつの指標のみでは精度よく見つけることが難しかったのです。
そこで、複雑な事象をそのまま捉えられるディープラーニングの技術を使って、多変数の特徴量とリスクの関係を見つける研究をしました。複雑な指標を組み合わせて非線形な特徴伝搬を行うモデルを使うことで、8割ぐらいの精度で運転中の事故リスクを予測できそうなことがわかってきました。ただし、ディープラーニングはブラックボックスになりがちなので、高リスクであるとアラートが出た際にドライバーに納得してもらえるよう、判断根拠としてモデルの判断の基準や指標を見える化する研究を続けています。
一方で、現在はもう少し測定を簡易化して、多くの企業に提供できるようにする工夫や検討も進めています。直近1年は、この方向の研究が中心で、運転中の簡便な測定を実現するためにノイジーなデータの前処理や評価方法について検討しています。日立物流の事例ではドライバーの安全を守ることに研究開発した技術を応用しましたが、危険な機器のメンテナンスなど他の業務分野にも生体データから事故リスクを推定する技術を展開できるように研究を続けています。
田中:我々が開発した技術は日立物流のSSCV-Safetyに採用されて成果の一つとなっていますが 将来的にはこの技術を人が危険を伴う作業を必要とする業界に横展開し、多くの社会課題が解決できることを願っています。
伊藤:日立の研究の現場で働いていて感じるのは、人財が豊富、ということですね。就職活動でいくつかの企業の方と会いましたが、日立の方は会話をしていてフラットな印象でした。就活の学生の話でも、真摯に汲み取ってくれるのです。それは入社後も変わらず、年齢もスキルも幅広い人たちがいるチームの中で、若手でも1人の研究者として尊重して話を聞いていただけると感じています。そうそう、就職する前は「会社に入ったら年功序列の空気やハラスメントに遭遇するのかな」と勝手な想像をしていましたが、年齢の垣根を越えてお互いを尊重してくださる方が多く、そういう悪い意味でのジェネレーションギャップが日立にはあまりないことも特徴かもしれません。
田中:日立では、事業部門や研究者、デザイナーなど幅広い人と仕事をしていきます。横の広がりが増えることで、解決の方法も広がっていきます。さらに数多くのテーマで研究をしていくと、健康・公共・医療分野と事業領域が増え、そこでさまざまなつながりができます。その時は特に何も起こらなくても、数年経つと一周回ってまたつながって、研究の解決策が見つかったりすることがあるんです。
フラットなキャラクターの人が多いというのは、まさにその通りですね。物腰が柔らかくて話しやすい人が多いと感じますし、それだけに人と人のつながりが生まれやすい環境なのかもしれません。
自分を奮い立たせる「歌」
伊藤奈桜(ITO Nao)
椎名林檎さんの音楽作品が好きです。よく聴いているのは「人生は夢だらけ」という曲です。修士論文を書いていて苦しんでいる自分に刺さった曲なのです。まず歌詞がいいんですね。大人になった自分がものづくりや表現をするときに苦悩するところで、共感する歌詞です。手をかけてもかけなくても、同じに捉えられてしまうことが多い世の中ですが、違いがわかる人に向けて真摯にものづくりしていこうと。曲の構成も特徴的で、一度聴いてもらいたいです。学生時代に出会った音楽でしたが、社会人になった今も、仕事中に「どうしてこの作業をしているのだっけ?」と自分の立ち位置を見失いそうになるときに、あかりを灯してくれる歌です。
自然の捉え方を宮沢賢治の文学から学ぶ
田中毅(TANAKA Takeshi)
日本文学の「宮沢賢治全集」(宮沢賢治著、ちくま文庫)を挙げたいと思います。文庫本で10冊の全集です。大学院生のころに全部読み、今も持っています。宮沢賢治は教師でもあり、科学的なイメージで自然を捉えて文学にしています。自然現象を面白く、そして皮肉に捉えて文章にしているあたり、自然を理解して表現する解釈や捉え方が研究のモデルに近いと感じています。ベタですが、「銀河鉄道の夜」は好きですし、「春と修羅」も好きです。自然現象をありのままに捉えて、苦しい中で受け止めて表現しているところがいいですね。
それともう一冊、「失敗ゼロからの脱却」(芳賀繁著、角川学芸出版)も紹介させてください。これは現在の私の仕事に少し関連する分野の書籍ですが、実はこれまでの事故ゼロをめざす過剰な対策では現場が働きにくくなるなどの弊害が起きていることが知られていて、本書籍で解説されている「レジリエンスエンジニアリング」が新しい安全管理の方法として注目されています。こちらは「普段から柔軟に対応できていることを最大化する」ことをめざしていて、私たち研究者にも新しい視座を提供してくれるので、とても参考になっています。
日立は、疲労に起因する事故リスクを生体データからリアルタイムで予測する技術を株式会社日立物流などと共同で開発した。この技術は、日立が開発した、生体データと行動データの統合分析技術基盤を活用したもので、業務中のトラックドライバーの心拍データから疲労に起因する事故リスクを予測し、ドライバーや管理者に通知する機能を実現する。写真はこの研究開発の中心メンバー4人。左から田中毅(TANAKA Takeshi)、伊藤奈桜(ITO Nao)、李云(LI Yun)、三幣俊輔(MINUSA Shunsuke) 。今回の「研究の現場から」の取材には田中と伊藤が対応した。