ノイズ(noise)を電気回路から完全に除去することは原理的に不可能ですが、高いレベルでノイズを制御することで、電子機器等の品質をより高いものに向上させることは可能です。つまりノイズ制御(あるいは除去)技術のレベルの高さがサービスや機器のレベルの高さに直結することになります。日立製作所(以下、日立)には半導体から鉄道まで、さまざまなスケールにおけるハイレベルなノイズ対策を開発してきた歴史があります。今回の「研究の現場から」では、このノイズ対策で社外から表彰を受けた2人の研究者が登場。1人はHEV/EV(ハイブリット自動車/電気自動車)向けのインバータのノイズ低減技術を実用化した研究開発グループの大前 彩リーダ主任研究員。そしてもう1人は超音波受信信号のノイズ低減で電子デバイスの非破壊検査装置の性能向上に寄与した西元 琢真リーダ主任研究員です。2人に共通するのは概念としてのノイズを実に幅広く、そして深く考察していることです。
(2023年11月9日 公開)大前:中学3年生のときに、進路として工学系を選びました。両親が共働きだったので、早く社会に出ようと思ったこともあり、工業高専(高等専門学校)に進学しました。しかし、入学してみると同級生はとてもスキルの高い人ばかりで、この人たちが5年後に社会で働くと思ったとき、5年では勝てない、と確信し、工学系の大学に編入しました。ところが大学の2年間では研究の時間が少なすぎる、ということで大学院にもう2年通うことになりました。
大学ではアンテナ系の研究室で、電波がどちらから来るのかを可視化する到来方向推定の研究をしました。レーダーに使われる技術と考えていただければわかりやすいでしょうか。修士1年の国際学会発表にて、日立の方からお声がけいただき、初めて日立を意識しました。結局、その方に引っ張られて日立に就職することになりました。
西元:私は中学を卒業して情報系の高校に進学しました。プログラミングやシステムエンジニアリングを専門にしている高校で、3年間、情報処理とソフトウエアを学びました。ソフトウエアを学んでいる内に、ソフトウエアを実行するためのハードウエアに対する理解が重要であると思い(笑)、大学では電子電気系の学部に進学し、ここで本格的にハードウエアを学ぶことになります。そして学部4年生のときに、日立出身の先生が主宰する集積回路の研究室に入りました。
微小電気機械システム(MEMS:Micro Electro Mechanical Systems)の研究を修士2年まで続けました。MEMSの中でも高周波系(RF系)を切り替えるMEMSスイッチを研究テーマに設定して学会発表も経験しました。修士修了後も研究職を続けたいと思っていましたが、研究所がある企業なら幅広い研究が可能なのではないかと考え、また研究室の先生が日立出身ということもあり、先生から日立を紹介していただき、入社した次第です。
大前:入社時に「電磁波の可視化の研究がやりたい!」と強調しておきました。電波は目に見えず、信じられないとか、どこからでているかわからないと感じる人もいます。電波のことをより知るためにも可視化をやりたいと思ったのです。実際、可視化の研究をさせてもらい、今に至ります。
そうした研究の成果として、2014年には「2.45 GHz帯域の微弱な電磁波の到来方向を可視化する技術を開発」と題したニュースリリースを発表しました。人の目と同じような仕組みで電波が検知できないかと考え、球体の電波レンズと人の網膜に当たる高密度のセンサを用いて、難しいアルゴリズムを使わずに電波を可視化することに成功しました。
ただし、電波レンズは波長以下の大きさになるとレンズとして働かず、2.45GHzでも大掛かりな装置になり、持ち運びが困難でした。より高い周波数のミリ波などでも電波レンズは用いられるのですが、フォーカスする領域が鉄道や自動車など低い周波数のノイズを検知する方向にシフトしたこともあり、電波レンズを使った電波可視化の開発から、少しずつ対象を変化させて行くことになります。
その後は、鉄道や自動車などにおける誤作動原因となることが多い「電磁ノイズ発生源」を特定するための小型センサの研究開発に携わりました。2017年には金沢大学と共同で「電磁ノイズの発生源を特定し、自動運転機器の誤作動を予防する小型センサ」を開発しました。さらに、現在ではパワーエレクトロニクス(電力の制御)分野でノイズがどのように生まれ、伝わるかを解析する技術の研究に取り組んでいます。
西元:入社して15年ほど経ちますが、思い返すとさまざまな装置に携わっていました。学生時代に、日立ならば1つの研究分野に限定されず幅広い研究ができるだろうと思ったのですが、結果としてその希望が叶っているようです。例えば入社直後は、日立がハードディスクを製造していた頃で、そのテスターの信号処理の研究をしました。その後、臨床検査向け分析装置の信号サンプリング回路やパワーアンプ回路研究開発を手掛けたり、半導体検査装置などの信号検出回路や高電圧電源回路、ヘルスケア分野の超音波診断装置向けに超音波振動子を駆動する半導体集積回路を開発したりと、幅広い分野の開発に取り組ませてもらってきました。
大前:電波とノイズの研究を続けてきたことで、2022年に日本電気工業会の「電機工業技術功績者表彰」の最優秀賞をいただくことができました。「800V 駆動電気自動車用インバータのノーマルモードノイズ抑制技術」での受賞です。
電気・電子機器には、EMC(Electromagnetic Compatibility)、すなわち電磁環境両立性という性能が求められます。電気・電子機器が動作すると、意図せずノイズが発生します。EMCには「ノイズを基準レベル以下にすること」と「一定の電波を受けても誤動作しないこと」の2つの考え方があります。その1つが各国や地域の規制値以下にノイズを抑えることです。
日立グループでは、直流電源のバッテリーから交流モーターを駆動するための電力変換に使うインバータという装置を作っています。このスイッチを切り替える際にノイズが発生してしまいます。
このノイズを外部に出さないようにするノイズ抑制技術が不可欠なのですが、自動車や鉄道のように大電力を扱う装置では、EMCの基準を満たすことがとても難しいのです。ノイズの規制値は取り扱う電力に関わらず、nW~μWのオーダーですが、鉄道や自動車では数百kWの電力を扱います。非常に低い許容範囲にノイズを封じ込めなければなりません。例えばフィルタを組み合わせてノイズを漏らさないようにするのですが、電力が大きくなるとフィルタが大きくなってしまいます。
HEV/EV向けのインバータを軽く、そして高性能にすることが私たちのミッションです。国内では400V系のインバータが主流ですが、欧州などではEV充電時間の短縮をめざして電圧を上げた800V系が使われる方向にありました。ただし800V系ではノイズの振幅が増大します。一方、400V系であれ800V系であれ、ノイズの規制値は変わらず、インバータの大きさも変わらないことが求められます。ノイズ抑制に大きな難題があったのです。
インバータの正極と負極にコンデンサを入れ、ノイズを抑制するフィルタとして使うのですが、800Vでノイズ抑制するためにはフィルタが大きくなってしまうことが課題でした。私たちはコンデンサの接続点を千鳥構造にすることで、特性の良いフィルタが作れることを発見しました。逆相の電流が隣接していると交流回路の抵抗に相当するインダクタンス(inductance:電流の変化が誘導起電力になってしまうこと)が小さくなるという特性があります。この特性を使ってインダクタンスを下げてフィルタ特性を向上させ、小型化を実現しました。
この構造は特許も取得し、2019年に量産出荷した800V対応高電圧インバータに採用されています。性能的には、従来のフィルタ構造よりも6.1dB高い減衰量を実現しています。これはフィルタの性能が約2倍に向上したことに相当し、従来であればもう1つ部品を追加しないと実現できない減衰レベルを部品追加せずに実現できました。
800V用の高性能フィルタを搭載し、世界で初めて車載用インバータとして800Vを実現することにつながりました。自動車は世界中のあらゆる国で乗るため、特にEMC基準の厳しい欧州の規格値をクリアしながら、800Vを実現できたことはEV化を推進する社会への貢献につながっていると考えています。その結果が、社外表彰につながったのでしょう。EMCは、EV開発やインバータ開発から見れば裏方です。裏方に光が当たる賞はとても少ないので、喜びはひとしおでした。
西元:ここで私がお話するのは、ノイズといっても大前さんの電磁波のノイズとは異なり、超音波の送受信を行う超音波受信回路でのノイズ除去の研究です。電子デバイスの非破壊検査を可能とする超音波映像装置「FineSAT7」の中核部分の1つに使われています。このFineSAT7は、日刊工業新聞社が主催の「第65回 十大新製品賞」で本賞を受賞しました。研究・開発、製造分野での検査精度の向上と生産性の向上という両ニーズに貢献する装置であることが評価されたものです。
FineSAT7は、貼り合わせウェーハ界面や半導体デバイス内部を映像化して検査する装置です。デバイスの内部は目視や可視光では確認できないので、超音波を使って検査します。超音波を送波して、デバイスからの反射波を受信し、壊すことなく内部の欠陥などを検出・画像化します。微細な欠陥まで検出できる装置として開発したのがFineSAT7というわけです。
私が開発したのは、超音波受信信号のノイズ低減技術です。微細な構造や欠陥を検出するには、超音波の反射波を受信した際のノイズを低減させる必要があります。欲しい信号を残し、不要な信号をノイズとするわけですが、何が信号で何がノイズなのかの定義から考えないといけない研究でした。
例えば熱雑音( thermal noise:電子のブラウン運動で生じる雑音)という温度を持っているだけで発生してしまうノイズや回路に使われる半導体デバイスがもつ特有のノイズがあります。さらに装置の視点でもノイズがあります。例えば超音波を受信する回路には隣に超音波を送信する回路があり、送信側で発生するノイズを取り除く必要もあります。ノイズ低減技術は、ノイズとなる複数の原因を特定し、その発生メカニズムを把握することで装置全体のノイズを低減する技術を確立する必要がある研究分野であると考えています。
一方で、微細な欠陥を検出する精度向上を目的としていながら、検出速度の向上もめざしました。微細な信号を取得しようとすると、同じデバイスに対してデータがたくさん必要になります。FineSAT7ではサンプリングレートを8Gspsと大幅に向上させ、また1つのデータあたりのビット数も増加させています。その上でノイズ低減の処理をしながら、従来と同等の計算量で実現することに成功しました。直径300mm(12インチ)ウェーハの一括検査を可能にしたことと合わせて、非破壊検査における精度と速度の両立を実現したのです。
ノイズ低減では、さまざまな技術を活用しています。信号とノイズで周波数が違う場合はフィルタをかければいいのですが、アナログフィルタとデジタルフィルタのどちらの効率が良いかなどの検討が必要になります。周波数で分離できない場合は、ノイズごとに電流の流れ方が異なるケースではノイズの経路を調整して低減するアナログ的なアプローチや、ノイズに特徴的なパターンがあるときはパターンマッチングしてデジタル的にノイズを消すアプローチもあります。超音波のノイズを低減して画像データに変換できれば、その先は画像処理でノイズ低減処理を実施することも可能です。
こうしたノイズ低減の取り組みは、下手をすると次々に現れるノイズの対策に翻弄される「もぐらたたき」になりかねません。それだけに、信号とノイズを定義して分離することが大切で、計画性を持った方法論によってノイズ低減を実現できると感じています。
大前:「とにかく電波をわかりたい」という単純な技術へのモチベーションが継続しているのだと思います。電波を見たいし、感じたい。お願いだからノイズよ下がれ!と、電波との対話を繰り返す毎日です。
西元:日立では、研究者自身が製品づくりに関わっていると感じますね。研究の成果として世の中にない新しい性能を実現してお客さまに届けています。研究はもちろん、研究以外でも大変なところがたくさんありますが、それを越えてお客さまに製品が届いて、使っていただけるところを見ると、研究成果が社会に貢献できていることを実感できて達成感は大きい。製品を作って社会にお渡しするという体験は、アカデミックな研究の場では実現できないことで、企業の研究者だから得られる達成感ではないでしょうか。
もう1つは、今回ご紹介した超音波映像装置「FineSAT」シリーズなどは、私たち自身がユーザーだということですね。研究開発して出来上がった製品を、自分がまた研究開発のツールとして活用するところは、日立のように幅広く製品を手掛けている企業で研究する醍醐味かもしれません。
大前:インバータの電磁ノイズ低減では、お客さまである自動車メーカーのメンバーも「よくやった!」と一緒に喜んでくれました。とても嬉しかった。研究領域としてノイズを規制値以下に抑えられたこと自体も嬉しいですが、最終的に製品ができたときはさらに喜びがありますね。実際に日立のインバータを搭載したクルマが発表されて、クルマがずらりと並んだ時は圧巻でした。「私たち日立の技術がこのクルマに入っている!」とその場で叫びたかったくらいです。研究者冥利に尽きるなあ、と思いました。
大前 彩(OHMAE Aya)
日立製作所 研究開発グループ サステナビリティ研究統括本部変化への転機を支えてくれた2冊
電磁ノイズの対象がアナログ通信からデジタル通信に移り変わっていることを感じた入社数年目に、たまたま入った都心の書店で見つけたのが「ディジタル通信―基本と応用」(バァナード スカラー著、森永規彦ほか訳、ピアソンエデュケーション)でした。デジタル通信の基礎から応用まで懇切丁寧に説明してあり、その後の仕事に大きく役立ちました。転機になった本と感じています。洋書の日本語訳で4~5cmほどの厚さがあり、当時1万2000円の本をその場でひるまずに買った自分を褒めてあげたいと思います。もう1冊、「茶席からひろがる 漢詩の世界」(諸田龍美著、淡交社)は、お茶の世界で使われる言葉の基となった漢詩を味わう書籍です。中学卒業後に工学系の世界に入り、文化系の教養に深く触れずに人生を過ごしてきました。最近、中国茶を楽しむようになり文化を改めて知ることに興味が出てきました。背景となる文化を学ぶことで面白さが増すことは、工学も含めた学問に通じることだと感じています。
西元 琢真(NISHIMOTO Takuma)
日立製作所 研究開発グループ サステナビリティ研究統括本部回路技術の定番書と問題解決の古典を研究のお供に
「システムLSIのためのアナログ集積回路設計技術」(P.R. グレイ、R.G. メイヤーほか著、浅田邦博ほか訳、培風館)を紹介します。アナログ回路設計に取り組む人が必ず目を通す1冊です。著者の1人のメイヤー氏はアナログ回路の大御所の中の大御所で、大学の研究室時代から勉強させてもらっています。1冊目はボロボロになり、今は2冊目を使っています。もう1冊、仕事のやり方を考える上で最も参考になった「いかにして問題をとくか」(G. ポリア著、丸善)を挙げたいです。ものを解くプロセスがまとまって書いてある本です。古い著書ですが、課題を整理して解決していく考え方は昔から変わらないことを研究で身にしみて感じています。
「自動車や鉄道のように大電力を扱う装置では、EMCの基準を満たすことがとても難しいのです。ノイズの規制値は取り扱う電力に関わらず、数nW~μWのオーダーですが、鉄道や自動車では数百kWの電力を扱います」(大前) 「熱雑音という温度を持っているだけで発生してしまうノイズがあるのですが、これをも取り除きます。さらに超音波を受信する回路には隣に送信する回路があり、送信側で発生するノイズも取り除く必要があります」(西元)