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第1回|MESSAGE
理系アナウンサーとして知りたい、伝えたい。
原子力発電の「現在」と「今後」

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「松井 康真がゆく原子力最前線 〜現場×対話で読み解くエネルギーの行方〜」始動!

脱炭素社会への移行、デジタル化の進展による電力需要増、ウクライナ戦争の影響によるエネルギー安全保障の懸念などを受け、エネルギーを取り巻く環境が大きく変化しています。電力の安定確保と脱炭素社会の実現という課題を前に、脱炭素かつ安定的なベースロード電源としての原子力発電の重要性が再認識され、政府のエネルギー政策と基本計画も原子力発電を可能な限り活用する方向へと方針転換されました。

こうした中、日立グループの原子力事業・研究開発・エンジニアリングの取り組みを通して、原子力発電の現状と今後を伝える特別企画シリーズをスタートします。民放キー局で初の理系大学出身アナウンサーとして、科学の知識を生かして報道の現場で活躍されてきた松井 康真氏が、日立グループの原子力事業のさまざまな現場を訪ね、原子力発電技術の現在地を取材、自身の言葉で伝えていただきます。

初回は、松井氏本人からのメッセージとして、ご自身と原子力との関わりや本シリーズへの意気込みなどを語っていただきました。

デジタル社会と脱炭素社会に求められる原子力発電の役割

エネルギーは私たちの社会に不可欠な基盤です。あらゆる領域でデジタル化が進む現在では、電力供給が途絶えれば社会システム全体が機能不全に陥ってしまうと言っても過言ではありません。一方で、気候変動という地球規模の課題を前に、脱炭素社会の実現に向けた電源構成の見直しも進んでいます。デジタル化で利便性を高めつつ社会を持続的に発展させるには、脱炭素で安定的に電力を供給できるベースロード電源を含むエネルギーシステムが不可欠です。ここ最近、世界的に原子力発電の需要が高まっている背景にはそうした事情があり、米国のテック大手企業は、大量の電力消費を伴う生成AI向けデータセンターの電力調達に原子力発電を活用する方針を相次いで発表しました。

そのようなタイミングで日立グループの原子力分野を取材してほしいという依頼を頂きました。長年報道に携わり、近年は福島第一原子力発電所の事故をはじめとする社会問題を扱ってきた者としては、願ってもない機会に恵まれたという思いです。

理系アナウンサーが原子力に向き合う契機となったチェルノブイリ原子力発電事故

実は、原子力には不思議な縁を感じています。

私は東京工業大学(現 東京科学大学)工学部化学工学科を出ており(卒論のテーマは火力発電所のプラント設計)、キー局では初の理系出身アナウンサーとして、1986年4月1日、テレビ朝日に入社しました。史上最悪の原子力発電事故と言われるチェルノブイリ(チョルノービリ)原子力発電所事故が起きたのは、それから間もない、同年4月26日のことでした。
当時の民放のスタッフは文系出身者ばかりで、科学、まして原子力の専門知識は乏しく、その事故の報道でもベクレルとシーベルトの区別もついていないような有り様でした。一連の報道を見ていた大学のサークルの先輩――当時は原子力研究室の助手でのちに教授に就任されるのですが――から怒られたことが忘れられません。「この原子力発電事故の報道ぶりは何だ。お前は何をやっている。何のために東工大を出て理系アナウンサーになったんだ」と。

ただ、その時点では入社したばかりの新人、毎日発声練習に明け暮れる身でしたし、そもそも大学での専攻も原子力ではありませんでしたから、もし助言を求められてもあまり役には立てなかったことでしょう。しかしながら、この経験は、後に自分が「科学報道」において果たすべき役割、そしてマスメディアの科学リテラシーの重要性について深く考えるきっかけとなりました。

原子力について学び始めたとき、3.11に

私のアナウンサー人生はそのような重大事故とともに幕を開け、以降、科学がわかるアナウンサーとして25年近く現場に立ち続けました。その後、アナウンス部のデスクになったとき、自分は今、本当にやるべきことをやっているのか、疑問に思い始めました。そして胸に手をあてて深く考えてみた結果、以前先輩から指摘された、テレビ局の原子力に関する知識不足を解消することこそが自分の仕事ではないか、と思ったのです。
先ほど言ったとおり、テレビ朝日をはじめ民放テレビ局には、NHKや新聞社と異なり科学担当の部署や専門記者がいませんでした。そのため原発事故が起きても、テレビ朝日には専門的に詳しく報道できる記者がおらず担当する部署もない。それはやはり大きな問題であると感じ、私自身が原子力発電に関する専門知識を身につけたいということを上層部に企画書を書いて提案しました。

幸い提案が認められ、勉強のために東京電力へ取材に通い始めたのが2011年1月のことです。その2か月後、東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故が発生したのはご存知のとおりです。
震災直前の3月2日、3日は柏崎刈羽原子力発電所に伺い、東京電力の方の案内で4号機の内部を見学させていただき、翌日にはもんじゅを見学。翌週の3月10日には、先述した先輩に連れられ六ヶ所再処理工場の見学に向かい、11日に見学を終えて建屋を出た瞬間に、三陸沖を震源とする最大震度7のあの地震に遭ったのでした。

急ぎ東京に戻ってからは、報道フロアに張り付いて原発事故報道の中心人物の一人となり、7月の人事異動で報道部に異動となりました。その後は原子力事故専門の記者として、原子力安全・保安院、原子力規制庁、東京電力などの会見に毎日通い、その内容を発信し続けました。震災以前から原子力に関する勉強で東京電力の方々にお世話になり信頼関係を築いていたことは、是々非々のスタンスを保ちながらも当時の取材では大きな助けになりました。それ以来、結果的に十数年間、原子力に関する報道に携わることになり、現在に至ります。

民放初の理系アナウンサーとして、科学的なファクトに基づく報道をめざし、数多くの現場を駆けてきた松井氏

理系であることを生かす報道を

アナウンサーという仕事は小学生の頃からの憧れでした。ただ学校の勉強では文系科目が苦手で、物理と数学と化学が大好きという根っからの理系人間でしたから、アナウンサーには向いていないと思い、大学は工学部へ、就職先も漠然と理工系企業を考えていました。ところが、いざ4年生になり就職活動が始まるというとき、「やはりアナウンサーになりたい」という思いが再び頭をもたげてきたのです。

チャレンジする以上、負ける戦いはしたくありません。思い切って大学を1年間自主留年し、アナウンス専門学校に通いました。その甲斐あって採用試験には合格することができましたが、大学では周りから「アナウンサー受験って、本気か?」とさんざん言われましたし、教授からも「科学をなめるな!」と怒られました。最初のうちは理系であることはアナウンサー受験においてはマイナスなのではないかと感じていたのですが、次第に前例のない存在であることを強みにできるのでは、と思うようになりました。

福島第一原子力発電所の事故に関する報道でも、科学的なファクトということを重視してきたつもりです。これは、科学報道の担い手としての意識と責任によるものであり、同時にメディアにおける科学リテラシーの重要性を痛感していたからです。事故当時の報道ぶりを見た人から、「松井さんは原発反対派ですね」と言われたこともありますが、反対か賛成かというより、とにかく事故は二度と起こしてはならない、教訓を今後に生かすためにも真実を伝えなければいけない、という信念は貫いていました。そして、マスコミュニケーションと言うからには、コミュニケーションを助け、齟齬(そご)を解消することが自分たちの役割であるということを常に念頭に置いてきました。

科学コミュニケーションの視点から技術を正しく伝えたい

エネルギーに関する議論は、ともすればイデオロギーと結びついたり、イメージが先行したりして偏ったものとなりがちです。その一端には、マスメディアが正確な情報や知識を伝え切れていないという問題があるのかもしれません。

また、大学の友人、先輩や後輩を見ていても理系の人々は概してコミュニケーションが苦手と言いますか、真面目に研究に取り組み、成果をあげているのに、その内容を上手く伝えることができていない人が多いと感じています。もしかすると日立という企業グループにもそうした面があり、優れた技術を持っていたり、素晴らしい活動を行っていたりしても、それらをうまく社会に伝えることができていなかったのではないでしょうか。

私は報道のプロフェッショナルとして、これまで数え切れないほど多くのインタビューを行い、その方々の思いや考えを引き出して社会に伝えるという経験を積んできました。今回の企画ではその中で培ってきた力を生かし、研究者や技術者と社会の「あいだ」に横たわる壁を乗り越えるお手伝いをさせていただきたいと思います。マネジメント、研究開発やエンジニアリングに関わる方々のお話から、日立グループの原子力のいま、そしてこれからを読者の皆さまへ正しく伝えることに、微力ながら貢献できればと考えています。どのようなお話が伺えるのか、私自身とても楽しみにしています。

松井 康真氏

松井 康真 氏
フリーアナウンサー・ジャーナリスト

富山県南砺市(井波町)出身。富山県立高岡高校卒業。東京工業大学(現 東京科学大学)工学部化学工学科卒業。1986年 テレビ朝日にアナウンサーとして入社。「ミュージックステーション」でタモリさんと組んでMC、「ニュースステーション」ではスポーツキャスターを担当、「ステーションEYE」、「ワイドスクランブル」、「やじうまプラス」などで報道情報キャスターとして活躍。2008年 テレビ朝日アナウンサースクール「アスク」学校長。在職中の2年間の指導で全国に100人以上のアナウンサーが誕生。2011年3月の東日本大震災を契機にアナウンス部から報道局原発事故担当記者に異動。その後に宮内庁担当、気象災害担当、コメンテーターを歴任。2023年テレビ朝日退社後に個人事務所「OFFICE ユズキ」を設立。株式会社タミヤ模型史研究顧問、富山県南砺市アンバサダー、株式会社獺祭メディアアドバイザー。

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