JPX × 日立製作所
カーボン・クレジット市場をご存知だろうか。温暖化ガスの排出削減などを取引可能とする、新たな市場だ。高い政府目標をクリアし、GX(グリーントランスフォーメーション)の実現と企業の成長を日本がともに成し遂げるために立ち上げられた。この新市場を支えるシステムはまさに根幹、重要な社会インフラだ。その構築にかけられた期間は、わずか約3カ月半。複雑かつ重大なシステムの短納期開発は、なぜ可能だったのか。
東京証券取引所
カーボン・クレジット市場整備室 課長
川久保 佐記 氏
2022年2月、経済産業省は政府目標である2050年のカーボンニュートラルや、2030年のCO2排出量46%削減(2013年度比)をめざし「GXリーグ基本構想」を発表した。「GXリーグ」とは自ら排出量削減に取り組む企業が、官公庁や研究機関などとともにカーボンニュートラルな経済社会に向けた変革や新たな市場を創造するための、実践の場である。
本構想で重要な位置を占めるのが、CO2排出量取引を自主的に行うカーボン・クレジット市場だ。東京証券取引所 カーボン・クレジット市場整備室 課長の川久保佐記氏はその意義を次のように語る。
「掲げられたチャレンジングな目標を達成するには、各企業の意欲的な取り組みが必要です。そのため政府は炭素価格を5年程度のスパンで中長期的に徐々に引き上げる前提の方針を打ち出しています。取引価格に対する予見性を高め、企業投資を促進するというメッセージと理解しています。カーボン・クレジット市場は、政府と企業の取り組みを支えるいわばインフラ。市場の取引が活性化すれば、GX投資はコストではなく、収益にもなり得る。GXリーグの参画企業がGX投資を収益機会と捉えることができれば、結果的に政府目標の達成貢献につながると考えられます」
2023年4月からスタートする排出量取引に向けて、まずは流通市場の設計として、価格設定や売買制度などをゼロから作り上げなくてはならない。この難題を前に2022年4月、経済産業省は「カーボン・クレジット市場の技術的市場実証等事業」を公募した。
ここで手を挙げたのが東京証券取引所だ。同社の所属するJPX(日本取引所グループ)のデジタル戦略子会社であるJPX総研と、日立製作所をパートナーに迎え、5月中旬に落札。日立製作所は長年同グループのシステム開発に携わってきた。今回のシステムはその中で培われた信頼関係を軸に、日立製作所と共同で開発を進めた。2022年9月22日、145者(最終的には183者)が実証に参加登録し、カーボン・クレジット市場が立ち上がった。
カーボン・クレジット市場の全体像
今回の実証実験で構築した取引システムは、GXの成否を左右するものであり、次世代社会インフラの代表格となる。通常なら年単位で設計・構築するようなシステムだ。しかし、テスト市場は2022年9月からのスタートが既に決定していた。開発に与えられた期間はわずか約3ヵ月半。全く新しい市場であり、制度面を含め多くのことが固まっていない。運用しながら変更が入ることも予想され、細部の仕様を決めてから開発に着手することは不可能な状況だった。モノリシックなシステムでは、臨機応変な修正ができない。一方で処理方式のための大きな要件は決まっていた。
JPX総研
IT開発部情報システム部長
山森 一頼 氏
※部署名・肩書はプロジェクト実施当時のものです
そこでJPXグループが選択した手段が、小さな独立したサービスを組み合わせてソフトウェアを構成するマイクロサービスアーキテクチャーと、システムを分割して段階的に開発し統合していくインクリメンタル型開発だ。これまで取引市場などの重要システムは、同グループが詳細な要件定義を作成し、システム会社に開発を依頼。それを元にシステム会社が開発手法を決めるという流れで実装まで進めてきた。しかし今回は短期間で社会インフラを構築しなければならない。プロジェクト成否の鍵を握ったのは、通常よりもさらに綿密に重ねられたコミュニケーションだった。
JPX総研 IT開発部情報システム部長の山森一頼氏は当時を振り返る。「一方的にお願いするだけでなく、マイクロサービスの分割の仕方やインクリメンタル開発の詳細な進め方など日立の考えを聞いて理解し、必要に応じて議論をしながら進めました。それが成功要因の1つだったと思います」。
もう1つの成功要因は、問題解決までのスピードだ。「毎日のように何かが起きていた」(山森氏)状況下、個々の問題を迅速に解決しなければ開発が停滞してしまう。「通常の大規模開発と異なり、報告資料の作成などに時間をかけられません。そこである程度現場へ権限委譲しながら開発のスピードを早めつつ、問題が起きれば我々部長クラスもすぐに議論に参加し、素早く解決するようにしました。そうするためには日立との信頼関係が重要でした」(山森氏)。
今回のシステムは、AWS(Amazon Web Services)を活用したJPXグループのクラウド共通基盤「J-WS」の上に構築している。同グループは約2年前から、ガバナンスを効かせながら安全にパブリッククラウドを活用するためのルールや体制づくりを行ってきた。その中で完成した共通基盤がJ-WSである。これまでも実験的なシステムや一部の社内システムでは活用していたが、今回の実証実験のシステムが本格利用の第一号となった。
J-WSの責任者であるJPX総研 情報システムデジタライゼーション担当部長 西端恭一氏は「今回の最優先事項は、短納期開発で変化する要件に速やかに対処すること。そのためにパブリッククラウドを積極的に活用すべきと考えました。既に準備していたJ-WSがあったので、これを使えば効果的かつ安全にパブリッククラウドを利用できると判断しました」と語る。この共通基盤が短納期開発を支えたことは間違いない。
JPX総研
情報システムデジタライゼーション担当部長
西端 恭一 氏
※部署名・肩書はプロジェクト実施当時のものです
今回JPXグループは、サーバーレスアーキテクチャーに初めて取り組んだ。当然その運用も未知の領域だ。そのため従来とは運用方法を変えたと西端氏は続ける。
「これまでの基幹系を中心とする運用スタイルでは、10年に1度起こるかどうかといった事象についてもリスクシナリオや対応の手順書を作成し、訓練を行ってから運用する“統合運用”を採っています。しかし今回は短納期で準備もできず、仮に準備をしても内容が変わる可能性が高い。そこで稼働させながらブラッシュアップする“ライトな運用”を採用しました。その中で日立を含め開発チームともチャットで事象を密に共有し、速やかに対応できるような体制を整えました」
J-WSはテナントの必要性に合わせて都度、機能強化を行っている。今回利用した機能の中には、既に実装済みの機能もあれば、新たな機能もある。例えば前者にはリモートアクセス機能や4層アカウント方式のセキュリティ機能などがあり、後者には注文約定後のメール送信機能やCI/CD(継続的インテグレーション/継続的デリバリー)の仕組みなどがある。「こういったストックを溜めており、次に使うテナントはルールに則った使い方で各機能を容易に利用できるようになります」(西端氏)。
政府は今後10年を見据えたロードマップを公表している。排出量取引については、2033年度からの段階的な有償オークション化を示しており、それに向けて規律を強化するという。流通市場の重要性も高まることが予想される。川久保氏は「海外ではボランタリークレジットの取引も加速しており、JPXグループとしては国の政策に貢献すると共に、国際的な動きも見つつ適切なタイミングで市場を拡大していきたいと思います」と語る。
市場拡大や変化するニーズへの対応、価値創出などの実現へ強力な武器となるのがマイクロサービスだ。「今回採用した基盤を活用し、機能強化や新サービスの追加を行う予定です。さらに今回のシステムや開発手法を、新たな市場やサービス創出に活用していきます」(山森氏)。
西端氏はビジネスを一緒につくり上げるパートナーになってほしいと、日立への期待を語る。「日立のみなさんは、新しい技術をどうビジネスに活用できるかに貪欲です。我々も開発したシステムをさまざまに応用できれば、より多くの価値を創出できます。これはまさに日立とだからこそ実現できると考えています」。
山森氏も「今回の開発は短期だったこともあり、全員が部署や会社の都合を乗り越えて、目標のために同じ方向を向けました。採用したインクリメンタル開発やアジャイルのチームが一丸となって開発する手法も、その実現に最適なやり方でした」と目を細める。
制度設計に携わってきた川久保氏は、これだけの短期間で新市場の立ち上げに成功した要因をどう見るか。「業務サイドが開発現場に近いところで開発状況を聞き実現可否の勘所を養いながら、一緒に制度設計をしたことが要因の1つ。次の10年で、世界は大きく変わるでしょう。ここまで、日立とは怒濤のような開発を行ってきましたが、今後変化する市場に対応するためにも、引き続きお付き合いいただきたい」と今後の展望に重ねる。
「今回の記事をきっかけに、多くの方と意見交換や議論をしたいと考えています。ご興味があれば、質問でもご意見でも、ぜひお寄せください」と最後に西端氏は話してくれた。GXの実現と企業成長を支える新市場が立ち上がった。次のチャレンジはここから始まる。