今年も熱い野球の季節がやってきました。社会人野球のNO.1を決める第93回都市対抗野球大会が7月18日より東京ドームで開催されます。日立製作所は、本選出場を決める北関東大会を無敗で勝ち上がり、第一代表にて4年連続40回目の都市対抗野球大会出場を決めました。東京ドームでは大会4日目 第三試合に(京都市代表・日本新薬)との対戦が決まり、頂点をめざし熱い戦いが始まります。
日立製作所の選手の中に長年チームの勝利に大きく貢献している選手がいます。「ミスター日立」と呼ばれ幾度となくチームの窮地を救ってきた田中政則選手です。本記事では、田中選手にフォーカスを当てこれまでの野球人としての歩みや、チームの勝ちにこだわる姿勢や熱い思いをご紹介します。
実業団チームが日本一を競う都市対抗野球大会で、「ミスター日立」と呼ばれるのが日立製作所野球部の田中政則選手 (日立製作所 エネルギー業務統括本部 安全・モノづくり本部所属)です。主力のパワーヒッターとして2016年の都市対抗野球大会準優勝や2019年の4強入りなどに貢献。1983年生まれで2022年には39歳になり、「さすがに限界」と口にしますが、ミスター日立は今なお進化し続けています。野球選手という仕事をここまで長く支えてきたのは、「諦めずにやっているならば、必ず道は切り拓ける」という一途な努力と思いでした。
実業団チームには3つの基本的な理念があるとされています。企業内においては従業員の気持ちを一つにまとめ、対外的には企業の認知度を高めると同時に地域のスポーツ活動を支援することです。選手たちの採用や就労などの条件は企業によって異なりますが、日立製作所野球部では、選手定年もなく野球に専念することができます。つまりセミプロとして、「野球選手という仕事」に取り組むのです。
日立製作所野球部の創部は1917年(大正6年)。2022年で創部105年を迎え、実業団野球のなかでも屈指の歴史を誇るチームです。これまで都市対抗野球大会(本選大会)には39回も出場しており、ベスト8以上の成績をおさめたのは13回を誇ります。
「ミスター日立」と呼ばれる田中選手は、そのうち4回のベスト8出場に貢献し、本選大会10回出場の表彰も受けています。日立の野球部からは多くのプロ野球選手も輩出してきましたが、39歳にして現役というのは他に例をみません。
その田中選手の強さについて、監督やチームメートは、「打ってほしい場面で必ず期待に応えてくれる」と評します。日立製作所に入社して3年目にはレギュラーになり、4番、5番、6番と打撃の中軸を担ってきました。守備ではファーストを守ります。
日立製作所野球部の創部100年目にあたる2016年に都市対抗野球大会で準優勝した時は、当時15年目でベテランと呼ばれる域に入っていましたが、準々決勝で2ランホームランを放ち、大勝を呼び込むと同時に、決勝進出に弾みをつけました。選手生活20年目になった2021年も5番打者として都市対抗野球北関東大会では首位打者賞(打率4割5分4厘)に輝きました。
「私に一番近い若手でも6歳年下」という、まさにレジェンド。四十路を前に、「さすがに厳しい」と言いながらも、「足が動かなくなったら野球ができなくなる」と社会人2年目、19歳の時から始めた毎朝10キロのランニングを今なお欠かしません。
「私も勤め人なので、やれと命じられたらやるしかないから」と笑いながらも、まだまだ現役続投の力がみなぎり、チームへの貢献、また自らの野球に対する想いの強さが言葉の奥から感じられます。
田中選手が野球を始めたのは、小学校1年生の時。共に野球をしていた6つ上、5つ上の二人の兄の背中を追いかけていたら、いつしか自分も野球に夢中になっていました。兄たちの投げるボールを打っていたので、小学校3年生の頃には、同級生が投げる球など簡単に打てるようになり、早くも才能の片鱗を見せ始めます。
野球人としての人生を、さまざまな意味で彩り、方向性を得たのが高校野球の名門、水戸商業高校時代です。同校時代は、1年生と2年生の時に夏大会、3年生の春に選抜大会と3年連続で甲子園の土を踏んでいます。しかし、そのことが田中選手にとって重要なのではありません。
「お誘いをいただいて水戸商業に入学して野球を続けたとはいえ、まさに高校野球の強豪校で、選手たちのレベルは私とは一段も二段も違っていました。だからといって、たじろいでいても仕方はない。とにかくひたむきに毎日の練習を重ねていたら、あるときに、目の前がぱっと切り拓かれた瞬間があって、『あぁ、もう少しやれる』と思ったのです」
この一途な努力と、ある瞬間に切り拓かれる新たな可能性。これが田中選手の、その後の人生の強い原動力になります。
高校野球時代にはもう一つ大切な学びがありました。橋本実監督(当時)がいつも口にしていた「野球というスポーツは頭でやるものだ」という言葉です。しかし、当時の野球部メンバーのほとんどが、“名将”の言葉の意味など分からず、「とにかく監督の言う通りにしていたら甲子園に行ける」と信じていた状態でした。
「監督の言葉の凄さが分かるようになったのは、社会人野球に触れ、しかも10年、15年と経験を積んだ後のことです。打ったり走ったりするだけの技術ではなく、打ち方に工夫を施したり、配球を読んだり、チームの士気を高めたり、相手チームの動揺を察知したりなど、さまざまな要素を考慮してこそ勝てる野球になるということです」
田中政則選手
高校卒業前には、「もう野球はやりきったと感じて、板前(和食職人)になろうと思っていました」と言います。しかし橋本監督は、社会人野球への挑戦を勧めます。「まず3年間ほど頑張ってみろ。それでダメなら大学に転身してもよいし、水戸と日立は近いから俺が相談にも乗ることも出来る」と背中を押します。田中選手は、「橋本監督がそこまで言ってくれるなら」と日立入りを決意します。
「高校野球で何度か甲子園に出場しているとはいえ、社会人野球のレベルの高さは半端なものではありません。野球に対する集中度もまったく違います」
しかし、橋本監督はだからこそ田中選手に挑戦を続けて欲しかったに違いありません。というよりも橋本監督は、自らの力で自らの可能性を拡げる田中選手の気質を見抜き、「田中ならばできる」と確信していたに違いありません。実際、田中選手は橋本監督の思っていた通りの選手へと成長を示します。
入社して3年間は社会人野球の厳しさ、レベルの高さに翻弄されます。それでも3年目にはレギュラー、そして4番となり、「5年目には、やっていけると自信がついてきました」。チームもまた、田中選手の成長と歩を合わせるかのように都市対抗野球大会本戦への連続出場を重ねるようになります。
田中選手は、抜群のバットコントロールと球に逆らわない打撃が特徴で、打順や本塁打には関心がないと言います。「打点が欲しい。野球は点取りゲームであり、点を多く取った方が勝つゲーム。効率良くランナーを返すことこそ野球の妙です」というのが田中選手の考えです。
この20年間で、公式・非公式合わせて数えきれないほどの試合に出場。そのなかには、嬉しい試合、悔しい試合、感動した試合などさまざまな戦いがありました。思い出深いのはやはり2016年の都市対抗野球大会準優勝。「負けた試合はとにかく悔しい。それが野球なんです。でも、初めて決勝にまで進出できたことは評価してもらえると思います」と語ります。
嬉しかったのは、2019年にキャプテンとして都市対抗野球の北関東大会を勝ち抜き、本戦でもベスト4にまで勝ち抜けたこと。実はこの年、和久井勇人監督に「そろそろ限界です」と伝え、「分かった」と言われていました。ところが1カ月後にはキャプテンに抜擢されたのです。
「30代後半になり、私の野球は確かに変わってきていました。どうしたらチームに貢献できるかが一番となり、犠牲バントでもなんでもやる。橋本監督がおっしゃっていた『野球は頭でやる』が分かってきて、和久井監督にもそれが伝わったのでしょう」と田中選手は語ります。
2021年の本戦2回戦は東邦ガスとの対戦。一回、2死一、三塁の先制機に、田中選手は左打席に立ち、「2球目は外角直球だ」と読んでいました。そして読みどおりとなり、きれいにはじき返した打球は三遊間を破り、三塁走者を還します。このときのコメントが「さすがにパワーは落ちたけれど、技術だったら若い人たちにはまだ負けない」。「野球は頭でやる」を示した一打でした。
ボールをバットの芯で確実に捕らえる技術を鍛えることで、より強い打球で打ち返す事が出来るようになります。また時には安打ではなく、ランナーを確実に進塁させるバッティングに切り替える。臨機応変に最善の対応を取っていく。
「何か先のことを考えてプレーをする。それが実は、キャプテンとして選手たちが
戦いやすい環境を創ることでもあると分かってきました。“For The Team”とは単なる献身ではなく、よりアクティブな動きを創るための働きかけであり、相互作用のようなものなのです」
改めてこれまでの野球人生を振り返ると、「日立製作所のチームで戦ってこられたことは、本当に幸運でした」と言います。
「グラウンドやトレーニング施設、寮など野球に打ち込める環境としては実業団のなかでも図抜けています。日立では一般の社員にも野球だけでなく他の実業団スポーツの観戦や応援を奨励しており、スポーツへの熱い思いがある会社です。やはり多くの社員の人たちの応援を得ながら戦うのは、勝利出来たたときほど喜びが多く、選手の励みにもなります。実業団スポーツとはかくあるべし、というあり方を示してくれています」
そうした環境のなかで田中選手は、とにかくケガをしないように気を使ってきました。そして、大きなケガがなかったことが、ここまで活躍できている一因でもあります。毎朝のランニング、地道な練習、そしてそこから鍛えられた精神力、すべてが丈夫な体となり、それは「必要とされる自分であり続けようとする」努力でもありました。
現役生活も終盤となった田中選手。後輩には、手取り足取りアドバイスはできるが、指導者としてプランを練り、戦略・戦術的に教えたりするのは苦手意識があるとのこと。しかし、それもまた一途に挑むことで、田中選手ならば自分らしい境地を開けるのではないでしょうか。
若いときは、自分がどんな仕事に向いているのか分からず悩みます。しかし田中選手の野球人という仕事人の歩みを聞くと、「天職とは与えられるものでなく自ら創るものである」ことを強烈に教えられます。
環境変化や直面する課題に対し、何が必要とされ、それをどのように解決し実現できるか考え抜き、諦めずに実行する精神。安直なところにとどまらないのが、「ミスター日立」と呼ばれる田中選手のミスターたるゆえんです。