1957年7月22日、二代目通天閣にネオンサインがともったその日、15年ぶりの点灯に大阪の街は感動に包まれたといいます。
明治時代の最後の年に誕生した初代通天閣が、戦時中にやむをえず解体されて以来、通天閣の再建は、通天閣の周りに広がる繁華街である新世界の人々の悲願でした。戦後、世の中の復興とともにその熱意が実り、二代目通天閣の建設がスタートしましたが、資金繰りは簡単ではありませんでした。
多額の建設費用を賄うために考えられた案が「広告収入」。ところが、その条件が厳しいものであったのか、なかなか話はまとまりませんでした。建設後も広告スポンサー探しは続き、広告代理店から東京の取引先であった日立に声がかかりました。おりしも、日立は通天閣が再建された1956年に白黒テレビ第1号機を発売し、家電事業に本格参入した時期でした。競合がひしめく関西エリアで日立の名を広めたいという強い志と、通天閣を再建したいという地元の想いが合致して、日立が通天閣にネオンサインを出すに至ったのです。
1974年にはオイルショックにより通産省(現経済産業省)から出された省エネ指導で消灯していましたが、地元と日立が一体となって再点灯の署名活動を行い、1979年4月28日に再点灯しました。
日立は約5年ごとにネオンサインのリニューアルを行いその都度、時代に即したメッセージや文言等を掲げています。また、東西南北4面の看板がありますが、西面は通天閣と契約当初からの約束で日立の広告は掲載せず、社会貢献や地域活性化を目的とした文言を掲載し続けています。
大阪の夜をますます華やかに彩る通天閣のネオンサイン。これからも大阪のシンボルとして、皆さまに親しんでいただけるように進化を続けていきます。